宮城県石巻市に所在する震災遺構、大川小学校を訪問させていただきました。

大川小学校の津波被害について(以下、震災遺構 資料から)
2011年3月11日14時46分。
宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートルの沖合を震源とする巨大地震が発生。
約3分間のとてつもない揺れが東北地方を中心に日本中を襲いました。
巨大な地震は巨大な津波を伴うという先人の教えを身をもって知ることとなるのは、それから間もなくの事でした。
巨大津波は、黒い壁となって北上川と富士川を遡上し、追いかけるように陸上からの津波が長面方面から学校がある釜谷を襲いました。

大川小学校の校内時計は、地震から51分後の15時37分頃で止まっており、津波が学校を襲った時刻の手がかりとなっています。

当時学校では、地震後、各学年ごとに校庭に避難しました。
校庭で保護者への引渡しを行った後、三角地帯へ向けて避難を開始したのは地震発生から約50分後のことでした。
そして、避難を始めて間もなく津波に遭遇しました。
全校児童108名中、欠席と引渡しなどで下校した児童を除き、学校管理下にあった78名のうち、74名が津波の犠牲となりました。そのうち4名は今も見つかっていません。(2021.6 現在)
その場にいた教職員も11名中10名が犠牲となりました。
発災当日の夜「大川小学校が孤立」とラジオで放送されるなど情報が錯綜し、学校管理下で前例のない大きな被害となった事実が分かったのは翌日の事でした。

大川小学校事故訴訟(以下、震災遺構 資料から)
2011年(平成23年)4月から石巻市と遺族の間で事故原因に対する話し合いが続けられ、2013年(平成25年)2月には文部科学省及び宮城県教育委員会が主導し大川小学校事故検証委員会が設置されました。
2014年(平成26年)2月に検証報告書が示されましたが、「事実調査に一定程度の限界があったことは否めない」とも明記されました。
2014年(平成26年)3月10日、大川小学校児童23人の遺族(19家族)は、事実を知りたいとして、宮城県及び石巻市を提訴しました。


一審では、主に教員の地震発生直後の行動等が問われ、一定の範囲で注意義務違反が認められました。石巻市・宮城県は控訴し、また問われるべきは当日の行動等だけではないとする原告も控訴しました。
二審(控訴審)では、事前の備えが問われました。
控訴審判決では、2003年から30年以内に宮城県沖地震が発生する確率は99%という認識のもと、学校は、地震が発生した場合に大川小学校まで津波が到達する危険があることを予見して、危機管理マニュアルに地震が発生した場合の避難方法等についてあからじめ定めておくべきであり、また市教育委員会も大川小学校に対し、マニュアルの不備を指摘して是正させる指導をすべきだったとして、責任を認めました。

石巻市と宮城県は上告受理申立てをしましたが、2019年(平成31年)10月10日、最高裁判所は上告受理申立てを棄却。事前防災の重要性と組織的な過失を認めた控訴審判決が確定しました。
実効性のあるマニュアル作成と訓練の実施
石巻市にはもう一つ震災遺構があります。
門脇小学校。
震災当時、すでに帰宅していた児童などを除き、学校にいた児童・教職員の全員が早期に付近の山へ避難して無事でした。日ごろの避難訓練が活かされた事例として伝えられています。

震災でご家族を亡くされたご遺族の方がおっしゃっていた言葉です。
命の犠牲のうえに成り立つ教訓はあってはならない。それでも伝えなければ。
日頃の備えについて、改めて考える機会となりました。